雲の下の木の王子様3

◆素直

 ジュリエルは転生の門の前に立ってまま、しばらく考え事をしていました。そしていつものように雲の下へ降りていく穴のところまで歩くのです。途中、広場を通り過ぎるとき、いつもの取り巻きの連中に会いました。
「今日も行くのか?」
 そのうちの一人がジュリエルに話しかけてきました。
「ああ…」
「もうやめちまえよ。別にジュリエルは悪くない。スークとウリウルの頭が悪かっただけさ」
「ああ…」
「一緒に遊ぼうぜ」
「オイラは行くよ」
「なあ、無理だって。いくら頑張ったってあの二人は会えないさ。それがわかっているのに審査師団はあの罰を言い渡したのだろう?」
「オイラはさ、信じるよ。だから行くんだ」
「くだらねえ。ジュリエルもあの二人と同じ馬鹿な病気が移ったのかよ」
「うるさい。これはオイラが自分で決めたことなんだ。師団の罰じゃない。オイラが決めた罰なんだ」
「あいつらが勝手に落ちて行っただけだろう? ハハハ…」
 取り巻きの連中は笑いました。何一つ嬉しい事などないのに。
「うるせえ。あの二人がおめえに一体何をしたっていうんだ。何もしていない! 何も! それをなぜそんなに言う? おまえらがあの二人を馬鹿にして、あの二人がそれをどれだけ悲しく思ったか想像できるか? けれど、あの二人はその悲しみをどこにも広げなかった。その優しさを馬鹿にできるか。オイラは素直になりたいんだ。オイラは素直になれない自分が一番嫌いだった。だから言う。オイラにとってあの二人は憧れなんだ。雲の下へ行く理由はそれだ。もう二度とあの二人を馬鹿にすることは許さねえ。もし馬鹿にするならお前の鼻を食いちぎってやるからな」
 そう言って、ジュリエルは取り巻きの連中をギラギラした鋭い目つきでにらみ付けました。

 雲の穴から飛び降りるとジュリエルはポツリと言いました。
「これでオイラも独りぼっちになったよ。スーク、これで同じだ」
 ジュリエルは空をゆっくりと下りて行きました。山の方へ向かうスークとミーシャの姿が小さく見えます。
「オイラも馬鹿だな。雲の上も下も汚してしまった。もうきれいな場所はないなあ。オイラが汚してしまったからだ。あの二人をオイラが悲しませてしまったからだ」


◆黄金の色

 ある朝のことでした。その日、スークは朝陽と共に起きました。金色に輝く草原の中でスークは目覚めたのです。スークはこの世界がどれとも比べる事のできないほど美しいという事を強く感じました。瞳の中に未来を約束する金色が飛び入ってきたのです。その光が共にミーシャを照らしていたのです。スークはちょっぴりだけこぼしてしまった涙を拭いて、静かに眠るミーシャを持ち上げると歩き出しました。
 スークはこの日、世界がどんどん美しくなっていくという事を知りました。
「君が花咲くように、世界も身を包んでいる。その向こうを見るだけでもっと美しいものがあるって事を感じるようになれる。だからさ、だから感じることで世界は美しくなっていくんだよ。君が花咲いた晩ね、きっと君は美しい世界を見たのだと思うよ」
 スークはミーシャを優しく見つめ吐息でなでると彼女を起こさないように静かに歩き続けました。


◆風の生まれる谷

ある時こんな事がありました。あれは、スークが世界の美しさを知った日。スークが目指していた山へとたどりついた時でした。スークは山をズンズンと登って行きます。途中にボロのテントがはってあり、近くの大きな石の上におじいさんが座っていました。
「こんにちは」
スークはおじいさんに話しかけました。
「こんにちは、君は?」
「スークといいます。旅をしているんです」
「そうか」
「こんなところでおじいさんは何をしているのですか?」
「私はここに住んでおる。ずっとな」
「ずっとですか」
「それが私のしたいことだからな」
「なぜですか?」
「ここが風の生まれる谷だからな」
「風の生まれる谷?」
「そうだ。この谷で風が生まれて彼らは旅を始めるのだ」
「へえー、風の生まれる谷。本当にあったんだ。僕、そう思ってたんだ」
「風の生まれる谷は世界中のあちこちにある。ここはその一つにしかすぎんよ」
「でも何でおじいさんがここにいて、それをしたいのですか」
「私は世捨て人なのだよ。だからせめて風の生を感じていたい。そう思ったのだ」
「風の生…」
「そう。別に生きているのは風ばかりではないがね。なぜか私は風が好きでね」
「おじいさん聞いても?」
「お茶でも飲むかい? 入れてあげよう」
おじいさんはお茶の準備をしながら言いました。
「それで?」
「風の運んでくるメロディーの事を知っていますか? 『青い広い海』の歌を運んでくる風を」
「『青い広い海』の歌を? 聞いたことがないな」
「そうですか」
「君は聞いたことがあるのか?」
「よく聞くんです。それで探していて、なのにそれは人の曲なんだ」
「それを風が運んでくると?」
「昔はよく聞いたんです。でも最近は聞こえなくなってしまいました」
「風が聞こえなくなることは良くないことだ」
「そうですね。僕、わからなくなっちゃって。あの曲が人の知っている曲だと知ったときから、じゃ、なんで探しているのだろうと思って」
「私はここにずっと住んでいるが聞いたことがない。ここはちょうど風の通り道なんだがね」
「はい」
「もしこの谷で生まれた風なら、私は知っているはずなのだ」
「違う谷で生まれた風の曲ですか」
「そうかもしれない。ただね、私は例え他の曲であっても風の運ぶ曲は聞いた事がないのだよ。風の曲を生む谷があるのだろうかね」
「やっぱり高名な音楽家が住んでいるんだ」
「音楽家? それは違うのではないかね。もし風に音を乗せる事が出来たら、その人は風に心を乗せられる人だ。その人は音楽家をやってはいけない」
「なぜです?」
「気付くはずだ。自分が音楽をやっているような人間でない事にな。ほら、お茶が沸いた。お飲み」
おじいさんは沸かしたてのお茶をスークに渡しました。
「あ、はい。ありがとうございます」
「後で風の生まれる谷を見に行こうか」
「はい、行きたいです」
 スークはお茶を少しだけ残して、冷めたころにミーシャにあげました。

 お茶を飲んだ後、おじいさんとスークとミーシャは風の生まれる谷へ行きました。おじいさんのボロのテントのあるところからすぐ近く、底の見えない深い谷でした。
「よくお聞き。風が生まれる瞬間の音を」
 スークとミーシャは耳を澄まして、その音に聞き入りました。
 谷にすれる音とは別に生命の安らぐ音が聞こえました。本当にかすかな音でした。風は激しく生まれるものではなかったのです。一休みするように穏やかに生まれるのです。静かに起きるように生まれるのです。
「これは音じゃない。声だ。おじいさん、風の生だよ。風の生の声だよ」
「おお、スークも聞こえるのかい」
「すごい。すごいよ、ミーシャ、ねえ」
「とても言葉にはなりませんわ」
「うん、そうだね。誰もが知っている音のはずなんだ。でも生が、生のエネルギーが心の中を通っていくよ」
「誰かが知っているかどうかは問題ではありませんわ」
(すごい)
 スークは静かな興奮を覚えました。おじいさんは目をつぶってじっと感じ入っていました。スークもミーシャもただ風の生を感じていました。心の中はとても落ちつかない激しい動きがありました。生の風の生に触れて落ちつかずにいることなど出来ません。
「私がここで生を感じたい理由がわかっただろう」
 やがて生まれた風が谷を通りぬけていくとおじいさんは言いました。
「十分過ぎます」
 スークは本当にそうだと思いながら答えました。
「優しい風が好きでね」
「はい」
「私は長い間、風の丘と呼ばれるところに住んでいたのだ。近くには風車があって、ギイギイとなる音が忘れられないな。よく優しい風が風車をゆっくりと回していたな」
「もしかしてその風車はすごく大きくて、赤い屋根がついていて、壁にこんな形の印がありませんか」
 スークはその時の印を手で描きました。
「こう、三日月のような…」
「おお、まだあったのか。懐かしいな。懐かしい…。ではあの草原も残っているのか」
「はい」
「世を捨てたこの老いぼれだが、すべてを忘れたわけではないのだよ」
「帰ったらどうですか」
「もう私を待つ人はいないよ」
「家も?」
「ああ」
「あのテントではだめですか」
「フフッ、人の世の中はな、驚くくらいに早く変わっていくのだよ。もうこの老いぼれの追いつくところではないな」
「でも、でも、帰りたいのでしょう。そんなのおかしいよ」
「私は世捨て人なのだ」
 スークはこのおじいさんが自分自身を無理に納得させている事に気がつきました。今のスークにこのおじいさんのためにしてあげられることはないのでしょうか。
「僕にはわかりません。せっかく風の生を感じたのにそんなのってないよ。行きたいところに行きたいよ。風がそうするように」
「スーク ごめんな。余計な事を話しすぎてしまったようだよ」
「今でも風車が残っているんだよ。変わらないであるんだよ」
「もうお帰り。谷を下りてお行き」
「でも…」
「私は風の生を感じる事で十分なのだ。早くも遅くもなく、強くも弱くもない生がただそこにある。それは永遠に変わらないことなのだ。こだわりは消える。さあお帰り」
 もうこの人のためにできることはないとスークは思いました。もう何も言う事はできませんでした。
「さようなら」
 スークは伏せ目になって静かな声で言いました。
「さようなら」
「お茶の味、忘れません」
「老いた味だ」
「最高の味でした」
 スークの最後の言葉はおじいさんに聞こえないほど小さな声でした。

 スークは一度も振り返らずに谷を下りていきました。その間ミーシャと話をする事はありませんでした。ミーシャもスークの悲しみを知って、ただ共に感じ、そして思いをめぐらせました。
(自分の最期を自分で決める。おじいさんのあの意志を僕は変えられない。あのおせっかいな男のような悲しみはもう嫌なんだ。)


◆大切なひと

 スークは谷を下りた後、ゆっくりと歩いていました。なんだか力が抜けてしまいました。せっかく風の生を共に感じた人が同じ生を持つことなく悲しい未来を見つめている。それはとても辛いことでした。
陽射しの強い日でした。スークは強い陽射しからミーシャを守りながら力抜けた様子で歩いていました。自分が弱い心を持っている事を知ったのです。何よりも心の弱い自分が見えてきたのです。長い旅を振り返ってもそうでした。体に力が入らなくなり、力なく倒れて空を眺めました。もう旅を続ける気にはなれませんでした。ミーシャはあの時からずっと黙ったままになっていました。

 長い時間が過ぎました。いつのまにか眠っており、気がつくと夕方になっていました。その間、夢は見ませんでした。ミーシャのほうを見ると、ミーシャの花びらがしおれています。花びらは白みがかかっていて今にも真っ白になりそうでした。
「ミーシャ! ごめんね。僕がうっかり居眠りをしてしまうものだから」
「……」
「ミーシャ。ねえ、どうしたの?」
「……」
ミーシャは何も答えてくれませんでした。
「ミーシャ、ミーシャ。起きてよ。ねえ、どうしたっていうの?」
「……」
それからスークはずっとミーシャに話しかけました。しかし、ミーシャは何一つ答えてくれませんでした。この時になってやっとスークは気がついたのです。ミーシャが黙っているのではなく、ミーシャの声が聞こえなくなってしまったのだということに。
(僕は大切なひとを失ってしまった。大切なひとを探す中で大切なひとを失ってしまったんだ。なんて愚かなんだ。こんなにしおれてしまうまで気がつかなかった。今やっと気がついた。やっと気がついた。旅なんてしなくても大切なひとは見つけられる。僕は自分自身で探さなくちゃならなかったんだ)

「ごめんなさい」
スークは心を込めて静かな声で言いました。
「……旅は、止めるよ。それでここに君を植えるよ。君はこの美しい世界と一つになるといいよ。僕はその側に家を立てて毎日 君に水をあげるよ。日よけも作るし、寒い日は僕の家に入ってきてもいいんだ」
 スークは心を込めながらミーシャの鉢をゆっくりと地面に置きました。スークは地面に膝をついてミーシャの鉢をゆっくり1周回しました。初めて会ったとき、彼女を世界で一番きれいだと思いました。今もそう思います。ずっと一緒に旅が続けられると思っていました。いつか大切なひとを見つけても一緒にいられるのだと思いました。旅を続ける中でミーシャにとっての大切なひともきっと見つけられると思っていました。スークはせめてミーシャの大切なひとを見つけなければならないと思いました。それが彼女のためにできる一番の事だと思ったのです。ゆっくりと考えてスークは話を続けました。
「ああ、それに、いつか空の話もしたっけ。君の生まれた青い空の中からきっと種を探して、拾ってきて、君の側に植えるよ。そのひとはきっといい友達になるよ。そのひとならきっと僕よりもよくしてくれるよ。青い空で生まれたひとならきっと君の気持ちもよくわかってくれるよ。僕は遠くに行くほどに君の気持ちからも離れてしまったようだった。君の声が届かなくなるほど遠くに離れてしまった。だから僕はだめなんだ。だけど、君のために一つだけ良い事をするよ」
 ミーシャが夢見た空の中で生まれるという種。それが彼女の思う大切なひとで、そのひとをスークは見つけねばなりませんでした。スークは思いました。もしミーシャの大切なひとを見つけられるならそれだけでいい。大切なひとを見つけられなくてもミーシャがいるのだから。もうひとりの大切なひとが。どうしても失いたくないと思うひとが。
「きゅうくつな鉢の中にいるのももう終わりだね。きっとそのほうがいいよ。この世界はひろいし美しいからそこに住むといいよ。…ミーシャ。大丈夫だよ。いつだって側にいるからね…。大丈夫だよ…」
長い旅ももう終わりだと、そう思いました。目をつぶると長い旅の場面場面が次々と浮かんできました。そして最後に行きつく場面はなぜかあの優しい風の曲と匂いになるのでした。
「また君か。君もよくしてくれた。ありがとうね」
 その時、またあの風がきたのです。優しい曲がスークとミーシャを包みました。風の生を感じた後のことでしたからすぐにわかりました。この風は風の姿を借りているけれど違う。このひとこそがいつもスークを見守っていてくれた大切なひとだとスークは思いました。
「いつも近くにいたんだね。僕の大切なひとは近くにいたんだね。君なんだろ?」
 その時、誰かが小さな声でスークに話しかけてきたような気がしました。スークはそれがミーシャの声だと思って、ミーシャのほうへ耳を傾けました。
「そうですわ」
「ミーシャ!」
「やっと私の声が聞こえたのね。ああ、よかった」
「ミーシャ、よかった。よかったよ。それに大切なひとも見つかったよ。ねえ!」
「私、スークのことを本当にわかりたかった。だからその風についてもわからなくてはならなかったのよ。あなたの探している大切なひとは姿を変えて風になりました」
「風になるほかになかったの?」
「あなたをいつでも見守っていられるように自然に帰るしかなかったのですわ」
「そうなんだ…。今日は最高の日だね」
「ええ、このことは一生忘れませんわ」
「僕も忘れないよ。ねえ、一緒に歌おう。青い広い海の歌を! こんなに嬉しい事はないよ」
「ええ。私もこんなに嬉しい事はありませんわ」
 大切なひとが側にいるという事の幸せをスークもミーシャもこれ以上にないほど感じていました。これほどすてきな事はありませんでした。ウリウルの風もこんなに嬉しい事はないというふうにスークとミーシャの周りをグルグルと回り続けました。そして青い広い海の歌の曲を流しました。


◆光のジュリエル

雲の上、転生の門前。そこにジュリエルが立っていました。ジュリエルはゆっくりと重い門を開いています。光が少しずつもれ始め、ジュリエルは光に包まれていきました。ジュリエルは思いました。ウリウルのしたことは間違っていない。そして自分もウリウルのようにしたかったのだと。素直に優しく生きていきたいのだと。
 門を開ききる前、門の向こうからとてもとても懐かしい歌が聞こえました。その歌に混じって潮の匂いが漂ってきます。ジュリエルは耳を澄ましてその歌を聞き、潮の香りをスッと吸うと幸せそうな顔でほほ笑みました。こんなに嬉しい事はありませんでした。
もう何も迷う必要はありませんでした。手に持ったハーモニカを胸に抱き、ジュリエルが門と共に光に包まれる中…。
〈終〉