家に帰ろう

山口哲郎はヨーロッパ旅行から二週間ぶりに帰って来た。いつも見る自宅も旅行から帰ってくると何だか新鮮に見えた。愛犬のラビは元気にしているだろうか。
重い荷物を抱えながら自宅の扉を開ける。
時刻は午後二時半。家族は誰も家にいない様子だった。異変にすぐ気がついた。
家の中はシンとしていて、まるでずっと誰も家にいなかったよう。ほこりっぽくよどんだ空気で、時が止まったように静かだった。
哲郎は何か奇妙な気持ちに襲われてリビングに行った。机の上にはコップがあり、いまさっきまで誰かがいたようだがこの部屋もほこりっぽくて気分が悪くなる。そのくせコップの中の水は透き通っている。水の中にほこりは入らなかったのだろうか。机上はほこりだらけ。哲郎の家族はみな綺麗好きでこんなにほこりがたまるほど放っておくことは考えられない。
冷蔵庫の中を見てみる。ニンジン、タマネギ、ジャがイモ、ホウレンソウ、トマト、オレンジ、納豆、豚肉、卵、ヨーグルト、牛乳、・・・腐っているものはなさそうだ。
二階の様子も見てみた。やはり誰もいない。そのくせスリッパや掃除機が廊下に出しっぱなし。二階もさっきまで人がそこにいたような生活臭がするのにほこりだらけだった。
哲郎が自室に入ろうとしたその時、一階のトイレの方から物音がしだした。トイレのドアに何度もぶつかる音。その音は段々と小さくなっていく。哲郎はトイレのドアを開けようとドアノブに手をかけた。内側から鍵がかかっているようで、開けることができない。
ドアの向こうから鼻を鳴らす声が聞こえる。愛犬のラビがいるのだとすぐに分かった。
哲郎はラビ、ラビと、声をかけてみた。ドアの向こうから愛犬の悲鳴が返ってくる。一体誰が犬をトイレに閉じ込めたのだろうか。とにかく助けてあげなければ。哲朗は工具箱を持ってくるとドライバーを出した。ドアノブを留めてある木ネジをドライバーで外し、ノブを引き抜く。
ロックされた部分が逆側の差し込み囗に引っかかっている。ドアごしの愛犬の声は段々と小さくなっていった。哲郎は激しくドアノブを動かしたり、金槌で殴ったりしてなんとかドアを開ける。
愛犬は干乾びて死んでいた。さっきまで生きていたであろう愛犬は砂漠の中に捨てられたようにカラカラになっている。哲郎は込み上げる吐き気を手で押さえて愛犬の死を見つめていた。トイレの中はほこりっぽくなかった。便器やトイレットペーパーはまったく古臭く感じない。愛犬だけが長い間放置されていたように見える。トイレの中に水はなかった。渇きを癒すため、ラビが飲んでしまったのだろうか。


その日の午後六時頃、中村龍喜のケータイにメールが入った。丁度中村が学校帰りに横浜で寄り道をしている時だった。
メールは友人の山口からだった。

件名:脱出不可能
「今、自宅に閉じ込められています。原因が分からない。助けて。電波も不安定で連絡も困難」
山口哲郎

山ロの家は横浜駅から30分もあれば着く距離。龍喜はただならぬ雰囲気を感じてすぐさま哲郎の家に向かった。途中電話をかけたりメールを送ったが、全く連絡がつかなかった。龍喜の不安は増大した。
一応警察に連絡したほうがいいのだろうか。しかし、状況が分からないのでは説明のしようもない。警察の人も困るだろう。とりあえず哲郎の家に行き、状況を確認し、一人ではどうしようもない状況であれば警察に連絡しようと思い、龍喜は哲郎の家に向かった。
哲郎の家から最寄り駅で降りると激しい駅員のアナウンスと十数人の警察の往来があった。
「緊急ニュースです。JR新宿駅、渋谷駅、池袋駅六本木駅銀座駅の五ヶ所で大規模な爆弾テロがありました。これより駅を封鎖します、これより駅を封鎖します。外出はしないで下さい。繰り返します繰り返します・・・」
駅構内は走り出す者、ケータイを取り出し家族に連絡するもの、警察に状況を確認しようとする者などが入り乱れ急なパニック状態になった。
警察はしきりに早く家に帰るよう市民に言い続けた。龍喜は急いで駅から哲郎の家に向かう。
テロが起きたのはどうやら東京だけのようだったが、哲郎に起きたトラブルと無関係なものとは思えなかったのだ。
駅から数分走ったところで哲郎の家に着いた。それは奇妙な家だった。ツタが入り乱れて家を囲んでおり、ベランダの鉄材はいまにも崩れそうに腐食が進んでいた。窓ガラスも10年も20年も掃除したことがないかのように真っ黒に汚れており所々にひびが入っていた。半地下状態になっている車庫のシャッターも半分ほど閉まった状態で壊れていた。それも台風か地震があったようにシャッターが湾曲しているのだ。ただごとではないことが起こったのだ。
龍喜はすぐさま山口の家に入って行った。玄関の扉は鍵がかかっていない。壊れてもない。すんなりと入れたのだ。意外。哲郎はすぐにも脱出できたのではないか。
「哲郎、哲郎」
龍喜は友人の名前を呼ぶ。
「龍喜。来てくれたのか」
意外。哲郎は玄関左側のリビングにいるではないか。龍喜はわけが分からず哲郎に問いただした。
「どういうことだい、哲郎。玄関はこんなに簡単に開くのに助けてくれなんて連絡をして。心配したんだぜ」
哲郎はきょとんとした顔をして玄関の扉を開けようとした。扉はびくともしない。
「開くのか、この扉は」
哲郎は何度も扉を開けようとした。足で扉を蹴ったり体当たりもした。しかし、扉はびくともしない。扉というよりも鉄筋の壁を押したり引いたりしているようで全く手応えがないのだ。続いて龍喜も同じような事をしたが、結果は同じだった。
龍喜はドライバーを持ってきて扉を解体しようと試みた。隣で突然哲郎が大笑いした。
「何がおかしいんだ」
龍喜はびっくりして哲郎に聞いた。哲朗は笑いをこらえて言い返す。
「いやね、僕もさっき同じ事をしたから、フフッ」
龍喜はドライバーを床に置いた。
「どうなっているんだこの家は」
「僕は今日ヨーロッパ旅行から帰って来たんだ。そうしたらこの有様さ。両親はいないし、うちの犬はトイレで死んでいる。部屋中ほこりだらけで鉄材は錆びている。電話は通じない、テレビは見れない、パソコンもつかない、僕の知っている範囲でなら部屋を案内するよ」
哲郎はリビングへ歩いていった。龍喜もついて行く。



午後八時、山口家
哲郎、龍喜は閉じ込められた後、色々とやってみたがどの方法もうまくいかなかった。
家中の窓ガラスは強化ガラスのように硬く、どんなに殴っても傷一つつかないのだ。電話、ラジオ、インターネットも使えない、ケータイもずっと圏外のまま。大きな音や声を出してみても誰も気が付いていないようだった。部屋の中がほこりっぽいことが気になっていた哲郎は掃除を
し、お腹が空いていたので夕食をとる事にした。
「なぁ」
簡単なサラダと炒め物を食べながら龍喜は口を開いた。
「哲郎はどう思う。一体どうなってるんだ」
哲郎は困惑した顔で答える。
「僕にも分からない。理解出来ない点がいくつかある。まず、家族がいないこと。次にたった二週間家を空けていただけなのに部屋中ほこりだらけだった。二週間では溜まりきらない量がね。それに電気のつく場所とつかない場所がある。そして僕等が閉じ込められている点だ」
「外の様子は知っているかい」
龍喜は哲郎に聞いてみた。
「何の事かな」
「東京主要駅で爆弾テロがあったらしい」
哲郎はきょとんとした顔で龍喜を見ている。龍喜は真剣な表情を返す。
「まさか、うそだろ。本当に?」
哲郎は驚きと恐怖の入り乱れた表情を龍喜に向けた。龍喜は静かに首を横に振って応えた。沈黙の了解が辺りの空気を包む。
「哲郎からメールがあって、僕は横浜駅から電車に乗っていた。哲郎の家に向かって急いでいたんだ。どうやらその時にテロが起こったらしい」
重い空気の中、龍喜が話始めた。
「僕が家に閉じ込められていることと関係があるのかな」
「僕もそう思った。とりあえず何とかして脱出しないと」
二人は二階の哲郎の部屋に行った。そして哲郎はその後、すぐ寝てしまった。旅行から帰ってきたばかりで疲れていたのだ。龍喜も明日はどうやって脱出するか考えているうちに眠っていた。

次の日、哲郎が起きると横に白髪の入っている中年のおじさんがいた。そのおじさんは哲郎の寝顔を覗き込んでいる。全く知らない人だがどこかで見たことのある顔のようにも思える。
「おお、目が覚めた。おはよう哲郎」
おじさんは目に潤ませながら言う。
「おじさん誰?」
哲郎は驚きながら聞いてみた。至極当然の質問だった。
「龍喜だよ。君は20年間眠っていたんだ」
「どうして」
「時間が狂ってしまったらしい。君の父親は長い間、時間の研究をしていた。時間粒子という素粒子の100000分の1の大きさに相当する物質を発見した。この粒子は常に一定の速度で移動する性質があり、その速さは光と同速。この物質がどうやら時間の正体らしい。君の父親はこの発見を公表せず、研究をさらに進めていた。時間粒子の速度をコントロールできないか、とね。時間粒子は透過性があり、どのような条件でも一定の速度で移動をし続けている。どのようにその粒子を捉え、コントロールするのか。かなり苦労したらしいがその部分は省略。
結論を言うと、その研究は失敗だった。ある場所では時間が止まったようになり、ある場所では加速する。この家の中のようにね。時間をコントロールするどころか暴走させてしまったようだ。可変させた時間粒子が拡散してしまったんだよ。どうやら君は20年間時間の止まったまま過ごしていたようだ。君にはたった一晩眠った記憶しかないだろう。
それと、君の父親はながらこの家にいた。君の隣の部屋にね。夜になるとガタガタと音を立てるよ。どうも半次元ほどずれた所にいるらしい。父親の部屋にメモがある。それを見るといい。君の父親と母親は一定の時間空に閉じ込められているらしく、ある時間には物音を立てて移動し、ある時間には静止している。毎日同じ時間に同じ音を立てていたからね。父上の部屋では時間が逆行と進行を繰り返しているようだ」
「なぜ今日僕は目覚めたんだろうね」
「君の父親の研究を僕が引き継いだのさ」
 龍喜は静かな声で答えた。哲郎は体を起こして部屋の椅子に腰かけ、深くうなずきながら言った。
「成功したのか」
「ああ、長い長い20年だったよ。君にとっては一晩の出来事だったみたいだけど。この20年間僕は考えた。もし時間をコントロールできるようになったらその力は世界を滅ぼす事になりえる、哲郎。だから時間が元に戻った時点で全てを秘密にしようと思ったのさ。ああ僕は疲れたよ。家に帰りたいんだ。家族は僕を受け入れてくれるかな。またな、哲郎。帰るよ」
 龍喜は深いため息をつき、立ち上がった。
「龍喜ありがとう。20年間もずっと大変だったろう。家まで車で送るよ」
「ありがとう」
 哲郎は龍喜を車に乗せて彼の家に向かった。そういえば昨日テロがあったんだと哲郎は思った。哲郎はその話をしようと龍喜を見た。龍喜は眠っていた。龍喜の顔がさっきより若返っているのに気が付く。だが龍喜の顔に似てこない。
 哲郎は考えた。もし20年など経ってなかったら。この隣にいる男は誰なのだ。この隣の男が時間をコントロールする力を得てたら。父の研究文書を盗むために陽動としてテロを起こしているとしたら。そのために家族が消えているとしたら。助けに来た龍喜が夜のうちに消えているとしたら。その代わりにこの男がいるのだとしたら。なぜわざわざ車で送ることを承諾したのか。つじつまが合わない。
隣の男は突然口を開いた。
「いつも言っているけどね、お前は中村龍喜なのだよ。哲郎は死んだ。君は多くの死に直面して精神が病んでしまった。さあ家に家に帰ろう。勝手に家から出ていっちゃダメだよ。二週間も帰らないで、心配したよ」
「龍喜、君は疲れているだろうから寝ていていいよ」