雲の下の木の王子様1

落ちていく雨と 落ちて来る雨と

僕が昔に聞いた音はいつも落ちていくほうだった
雨が雫となって生まれる瞬間がたまらなく好きなんだ
風が旅の途中で一休みをする時に出す音くらいに好きだった
水の粒が静かに触れ合って立てる音は
ちょっぴり切なくて
落ちこんだ心がなぐさめられるときもあった


雲の上の木の王子様
○雲の下編


 その日、スーク王子のいる場所では雨が降っていました。スーク王子は自分の名前がスークであることはわかっていました。しかし、それ以上の事は何一つわからずじまいでした。気が付いた時、側には逆さになった木があり、そこに手をかけていたのです。長い布が一枚近くに落ちていましたので、スーク王子はすぐにそれを体に巻きつけました。
 温かな雨でした。スークは全くの一人ぼっちでしたけれど、温かな雨が包んでくれたので、嬉しかったのです。心の中には何かわけのわからないモヤモヤした気持ちがありましたがいくら考えてもわからないので、考えることはやめました。スークが今、二つほど強く感じることは、自分が触っている木と限りなく広がる空と雲一面の姿でした。
「おーい」
誰かがスークのことを呼んでいました。スークのいるすぐ近くには家があり、そこに住んでいる人の声でした。
「こんにちは」
スークは軽く首を振りました。
「こんな雨の日に、一体どうしただったか?」
少し癖のあるしゃべり方のおじさんは不思議そうな顔をスークに向けながら言いました。
「……」
スークは何も言うことが出来なくてくちごもりました。
「あんたどこから来ただか?」
「わかりません」
これが今のスークにいえる精一杯の答えでした。スークはもう何一つ前のことを覚えていなかったのです。
「そうか、まあいいだか、とにかく濡れているじゃないだか。よかったら中にお入りだ」
「すみません」
「いいだかよ」
人の良いおじさんはスークのためにすぐ暖炉に火をつけてくれました。
「ここで温まるといいだかよ。服も濡れているだなあ、今から変えの服を持ってくるからその服は乾かしなあよ」
 おじさんはスークににっこりと笑って、服を取りに行きました。

「すみません」
スークはおじさんから服を借りて暖炉の前に座りました。服は少しだけブカブカでしたが、人の良いおじさんらしい、いい匂いがしました。やけに人くさくて、それが安心する匂いです。
「あの木見ただか。あの木はつい最近に空から降ってきたものなんだかよ」
「本当ですか」
「ああ、俺はびっくりしただかよ。あの時の大きな音と振動といったら…。心臓が飛びあがって、身が縮まって寿命が縮まっただかな」
「それで逆さになっているんですね」
「ああ、しかし、どうやって落ちてきただかね」
「さあ、見当もつきませんね」

 その日、人の良いおじさんはスークを家に泊めてくれました。スークは夢を見ました。雷が光った時のような短い夢でした。それは雲の上に腰をかけて誰かと笑い、その笑いが空へと吸いこまれていく夢でした。そして目の前には光のすじがずっと遠くへと続いていました。


◆転生の門前

 その日の雲の上でのことです。ジュリエルはウリウルを探していました。ジュリエルはウリウルにもあやまらなければなりませんでした。本当の所、いたずら心はあってもそれ以上に彼らを落とし入れるようなことは考えてなかったのですから。ジュリエルが探しまわったところ、ウリウルは宮殿から南東へ行った場所、転生の門と呼ばれる場所にいました。そこで重い扉を少しずつ開いていたのでした。
「ウリウル」
ジュリエルの声には何も答えず、ウリウルは門の扉を開き続けました。
「ウリウル、バカなまねは止めろよ。そんなことをしたって、スークは戻らない」
「あんたには関係ないだろう。そうだよな、あんたからすれば何が起ころうとも自分のことじゃないからな。今だってそう思っているんだろう」
 ウリウルはジュリエルのほうを向かず、以前と門を押し続けていました。
「そんなことない。オイラ、ウリウルに謝ろうと思ってここまできたんだ」
「悪いけど、あんたが僕に償う方法なんてない。帰ってくれ」
「ごめんな。こんなことになるなんて思ってなかったんだ」
「僕はこれからスークに会いに行くんだ。スークと一緒にハーモニカを吹いて歌を歌う約束をしたんだ。それがどれだけ大切なことなのか、お前にはわからないだろう」
 ウリウルはどんどんと門を開いていきました。門の向こう側からエメラルド色の光が漏れてきます。
「オイラだって…。最後だから言うよ。オイラは君やスークと仲良くしたかったんだ」
ウリウルはジュリエルを一度も振り返ることなく門を開ききりました。ウリウルの体は門の向こう側から来る光で眩しく光っていました。


◆旅立ち

 スークは、自分は旅立たなければならないと感じていました。心を満たすものは何もなく、そして頼れる自分の過去を知ることもありません。大切な何かを失ったまま生きていられるほどスークは我慢強くありませんでした。
 とにかく、スークは次の日、おじさんに深いお礼を言って旅立ったのです。空にかかる雲の切れ目から光がもれ、昨日夢で見たような光のすじが続いていました。それを見てスークはこちらの方向へ進もうと思いました。スークはその日、一日中歩き続けました。一人ぼっちでいる淋しさを感じずにはいられません。
 スークはその日の夜にもまた昨日と同じような夢を見ました。雲の上にいて、誰かと笑い、走ったり歌ったりする夢でした。スークが覚えていられたのは最後に見た空の青と太陽の眩しい金色の輝きでした。

 次の日、スークは早くも旅を止めてしまいました。道の途中でどうしても足を進められなくなってしまったのです。生まれて初めて見た花。だから名前なんて知りません。ですが、本当にきれいだとスークは思いました。薄桃色のつぼみで身をつつみ、まだ花びらは開いていませんでしたが、小さく、きれいで、弱々しいような花。かわいらしく地面に根を張り、静かに咲く花。ただただスークはその花に見とれてしまうばかりでした。スークはその花に話しかけてみました。
「ねえ、君、名前はなんて言うんだい?」
「あら、ごめんなさい。私、ウトウトとしていたみたいですわ。私はまだ生まれたばかりなの。だから名前はありません」
薄桃色の花はすまなそうに小さな声で言いました。
「そうなの」
スークは残念そうな声で言いました。
「あなたには名前がありますの?」
「僕はスーク」
「そうですの。もしよろしかったら私の名前をつけてくださらないかしら」
薄桃色の花は静かな声で言いました。
「もちろんだよ。君にふさわしい名前を考えるよ。でもすぐにっていうのなら、困るな。君にふさわしい名前なんてすぐに思い浮かばないもの」
「そうですわね。ではあなたが思い浮かぶまで待つことにしますわ」
「君はどうしてそんなに美しいの?」
スークは胸をドキドキさせながら聞きました。
「そうでしょうか。私は生まれたばかりなのでわかりません。そういえば、スークはどこから来ましたの?」
「僕は…」
スークは言い出そうとしましたけれど、言葉に詰まりました。だからスークは今、自分の思うことを言おうとしました。
「僕も生まれたばかりなんだ。それで今は旅をしてる」
「旅を? まあ…。でもこんなところにいていいの?」
「うん。ねえ、世界は君みたいに美しいのかな。それとも君が世界で一番きれいなのかな」
「そんなことありませんわ」
薄桃色の花は顔を赤らめながら言い返しました。
 スークはそれからこの花のために水をくみに近くを歩き回りました。初めての土地なので水を探すのにたくさんの時間が必要でした。その間、スークは花の名前を懸命に考えていましたが、名前のつけかたもスークにはわかりませんでした。名前というものは一体どんなものなのでしょうね。


◆ミーシャ

 人はなぜ夢を見るのでしょう。夢は過去の出来事でしょうか。それとも未来に起こることでしょうか。スークは今まで何度も昔の頃の夢を見ました。けれど昔の記憶を失っていたので、それが自分自身に起こった事だということには気がつきませんでした。
 その日、スークは濃い霧がかかったようなぼんやりとしたひとが側にいる夢を見ました。

「おはよう、君」
「おはよう、スーク」
「ねえ、夢を見たんだ。誰かが話しかけて来た。けど、内容は忘れちゃった。僕の会いたいひとなんだよ、きっと。きっとどこかにいるひとなんだ」
スークは声を弾ませて言いました。
「私も夢を。私は多分、青い空の中で生まれた種なのですわ。青い光の夢を見ましたわ。キラキラと輝く青と白の光…。すてきでしたわ」
「うん。君の名前の事なんだけど、ミーシャっていうのはどうかな」
「ミーシャ? ミーシャ…。いい名前ですわ」
「なんとなくなんだけど、思いついたんだ」
「気に入りましたわ。ねえ、スーク。私も旅へ連れていって下さらない? 私はずっとここに根をはって、何も知らないわ。私も世界を見てみたいわ」
「ミーシャ…。でも、根をしっかりと張らないと」
「私は自由に歩ける足がほしかったですわ。根なんて。本当の事を言うと、私も誰かを探さなくてはならないの。それが誰かはわからないけれど、大切なひとなのよ」
「そうか。じゃ、一緒に旅をしよう」
「ありがとう、スーク。嬉しいわ」
「うん。一緒に旅をすればきっと楽しいと思うよ」
こうしてスークの旅はまた始まることになりました。昨日夢で見たようにスークが旅をするのはスークの会いたい人がいるからだと、そう思ったのです。


◆みちばたの風

 スークは途中でミーシャにちょうど似合う鉢を見つけ、その中にミーシャを入れて旅をしていました。旅は順調、途中のみちばたのことです。スークは風に乗ってくる不思議な音を聞きました。スークは足を止めてその音に聞き入りました。
「ねえ聞こえるかい、ミーシャ。あの不思議な音を」
「ええ、聞こえるわ。とても美しい音ですわ」
「一体 何の音だろうね。笛のように聞こえるけれど、ハーモニカのようにも聞こえるし、ピアノのようにも聞こえる。優れた音楽家はどんなに離れた場所にでも音楽を届けられるのかな?」
「もしそんな人がいるのなら、ぜひ会いたいですわ」
「ああ、なんだか懐かしいような曲だねえ」
 スークは気持ちのよい曲を流してくる風の感触をしばらく感じていました。やがて風が止むとスークはとても物足りないような気持ちになりました。心のはしっこを風が持っていったように感じたからです。

 その日、スークは夢の中で鳥のようなひとに会いました。いじわるそうな目の奥に悲しみを抱え、スークに一言だけ言いました。もっとたくさんの事を言ったのかもしれませんが、スークは一言分だけしか覚えていられなかったのです。
(やっと君を見つけたよ。)
鳥のようなひとは(正確には鳥のような翼の生えたひとですが)目を細めながらスークを見ていました。


◆ダニーとターボ

 ある時、こんなことがありました。あれはスークとミーシャが長い道の続く途中にあった木づくりの小屋へたどりついた時でした。
「少し中で休ませてもらおうか」
「そうですね。ずっと歩き通しでは疲れますわよね」
スークは小屋へ近づき扉をノックしました。
「こんにちは」
中からは何の反応もありません。スークは小屋の中へ声をかけました。
「入りますよ」
スークがそっと扉を空けると、中には誰もいませんでした。
「お留守みたいですわね」
「中で待っていちゃ、悪いよね」
「泥棒と間違えられてしまいますわ」
「そっか。じゃ、外で待とうか」
スークとミーシャは小屋の外でこの小屋の持ち主を待っていました。しばらくすると遠くから男と犬がこちらへ向かってきました。犬のほうはスークに気が付くと走り寄って来ました。
「おい、ターボ、こら!」
「わああ」
手むくじゃらの大きな犬は尻尾を大きく振ってスークに飛びかかるとスークを舐めまわしました。
「ウォンウォン」
「こら、だめだろ。おや、ごめんな。こいつ、嬉しいみたいだな」
男のほうもスークのほうへ走ってきて、犬を捕まえて止めました。
「かわいい犬ですね」
「君の事が気に入っているのかね」
 犬の飼い主の男は不思議そうな顔をして言いました。
「あの、少しこの小屋で休ませてもらっても?」
「おう、中に入りな。お茶でも出すから」
「すみません」
「おう」
 スークは男に案内されて小屋の中に入りました。
「僕、スークと言います」
「俺はダニーだ。こいつはターボ」
そう言って、ダニーはスークにお茶を出したあとにターボの頭をなでました。
「長い旅なのかい?」
ダニーはスークに聞きました。
「わかりません。ある人を探しているので、その人が見つかるまで」
「そうか。早く見つかるといいな。その花も?」
「ミーシャっていいます。このひとも探しているひとがいるのです」
「きれいな花だなあ。匂いを嗅いでもいいかい?」
「恥ずかしいですわ」
ミーシャはそう言いましたけれど、ダニーはミーシャの声を聞くことが出来ませんでした。
「いいのかい?」
「恥ずかしいって、そう言ってますよ」
「そうか…。でも本当にきれいな花だなあ。つぼみが開くのが楽しみだな」
「花のつぼみっていつになったら開くのですか」
「そうだなあ。種類によって違うのだけれど、一ヶ月以内には咲くんじゃないかな」
「そうですか」
「なあ、よかったら今夜ここに泊まっていってもいいんだぜ。ターボも喜ぶだろうしさ」
「ウォンウォン」
 ターボはダニーの言葉に答えるようにほえました。
「いいんですか」
「もちろん」
こうしてスークは親切なダニーに一晩泊めてもらうことにしました。夕食もごちそうになって、その時にダニーに旅のいきさつを話しました。ダニーはスークの話をとても楽しげに聞いていました。スークの話に何度もうなづき、真っ直ぐな瞳でスークをみすえていました。

 その日の夜、スークは夢を見ました。起きた後に思い出せない夢を。スークの目の前には鳥のような翼が背中に映えたひとがいました。
「なあ、もう五回目になるんだぜ」
「えっ、君は?」
 スークはびっくりして、そのひとに聞き返しました。
「オイラはジュリエル。なあ、スーク。本当に忘れたのかい。この夢さえも忘れるのか?」
「そんなこといわれても困るよ」
「そうだよなあ。せめてオイラの事が見えてくれれば」
「夢、でしょ」
「夢だがな、これを本当の事として受け止めてもらいたいんだよ。君はすぐに見つけられた。でも、ウリウルはいまだにわからない」
「ウリウル?」
「スークの大切なひとだよ。スークはその人を探しているんだぜ。しっかりしておくれよ」
「ウリウルっていうのか…」
「スークだってここへ来ても自分がスークだとわかっただろう。ウリウルもウリウルであると思うけど」
「ウリウルはジュリエルの友達なのかい?」
「いや、オイラにその資格はない。友達なのは君だけだ」
ジュリエルはとても沈んだ声で言いました。
「そうなの。いつでも側にいるの?」
「オイラのこと?」
「そう」
「いるさ。それがオイラの償いだから。ずいぶん君たちにひどい事をした。全てオイラの責任なんだ」
 ジュリエルはあの時からずっと自分を責め続けていました。
「そう」
「明るくなってきた。またな」
 目覚めの前の一瞬、暗い風景に包まれてスークは夢を忘れてしまいました。


◆風の丘

 ある時、こんなことがありました。あれはスークとミーシャがダニーの家を出てから数日後、柔らかな風の吹く丘へ着いた時のことです。そこに大きな風車がありました。ゆっくりと大きく回り、ギイギイと鳴る音が印象的で、ふたりはその大きな風車をしばらくの間、見つめていました。
「ねえ、まただよ」
スークは目を細めて風を感じながら言いました。風車がギイギイと鳴る音とは別に風に乗ってくる曲が聞こえます。
「あら、そうですわね」
スークは前に聞いた不思議な音が風に乗ってくるのを感じました。
「この柔らかい風、この風なんだ」
「なんて温かい風なのでしょう。包まれるようですわ」
ミーシャは静かに言いました。
スークは思いました。この風のような柔らかさを持つひとが僕の大切なひとだったらいいのにな、と。
 淡いオレンジ色を感じる風の音を聞きながら、スークはその風と同じ方向に歩き始めました。少しでも長くその音を聞いていたかったのです。やがて消えるだろうその曲にちょっぴりの切なさを感じていました。

 柔らかな風と、風の運んでくる曲が終わるとスークはやっぱり切ない気持ちになりました。スークはミーシャに聞きました。
「ねえ、ミーシャ。風というものは一体どこから来てどこへ行くのだろうね」
「風はずっとずっと流れているものではないかしら。そうでないと風はいつか止まらなくてはならなくなるわ。でもどこかで生まれて、どこかで死んでしまうものなのかもしれないわ」
「うん。もし風が生きているなら、この曲はどこから来るのだろうね。どこから運ばれてくるのだろうね」
「むずかしくてわかりませんわ」
ミーシャは困ったふうに体を少し揺らせて答えました。
「そうだね」
 もしかしたら風の生まれる谷があるのかもしれない。そしてその近くに風に音楽を運んでもらっている音楽家がいるのかもしれない。もしそのような場所があるのなら行ってみたい。そうスークは思いました。


◆迷いの風

ある時、こんなことがありました。あれは柔らかな風の吹く丘の先、とある町へ着いた時でした。
 町の中、急にスークはとても変な気持ちになりました。いつも感じる風が町の中で迷い出したからです。
「ねえ、ミーシャ、ここの風は行き場を失っているよ」
「そうですわね。なんだか、よい音ではありませんね」
「うん。後から来る風に押し出されて、きっとこの風も出て行くだろうけれど、こんなところにあのひとはいないよね」
「私もそう思いますわ。大切なひとだったらきっと同じ事を思うはずですもの」
「迷っている風はなんだかさびしそうだね」
「そうですわね。行く所のない風は自然でないもの」
「そうだね」
スークとミーシャは同じ風にならないように迷わず町を出て先へ進みました。
「風も迷う事があるんだね」