無言の修行

例えば僕はボランティアをやっている話とか実家の手伝いの話を殆どしない。
人が休んでいる時に働いて、人が働いている時にも働く。

それを人と比較しても仕方がないし、実際に勤勉かどうかを別として、勤勉さを自慢するのが好きじゃない。
また自分の善行においても自分が納得すればいい事なので人に自慢の種として話すことはない。
だから僕のそういった話を知らないで、軽い言葉で馬鹿にしてくる人がいる。


道を求める人ならば自らがたどり着けない距離の長さを知っている。
だから人をなまぐさ扱いすることに恥じらいを覚える。
飲み込み続ける言葉。恥じらいを知らない人ほど偉そうに振る舞う。傲慢に振る舞う事が恥ずかしい事だと思わないからだ。
もし自覚があり、恥じらいを知る人なら言わない。
言わない事が修行なのだ。


僕は世の中が良くなって欲しいと願う欲を持っている。
それを知らない人が僕に俗だと言う。
人は本人が見えるように世界が見える。だからあなたの見えた世界観を否定はできない。

僕が聖であれ、俗であれ逃げようのない道がある。
本人にしか見えないし、歩く事しか出来ない。他者と交換不可能な価値観がある。
それは僕が特別なのではなく、誰にとっても有りうる事だろう。


仏の道について殆ど話したことがない。
それは自分にとって大事すぎて簡単な気持ちで話したくないからだ。
だから言わなかったということは「無かった」事と真逆の事。
大事なもの程、口には出さず心の中で育てる。


大人になると色んな事が適当になる。20代の途中で腐った大人になりつつある者を見ると嫌悪感が募る。

行を修める事を止めたら、自分を棚に上げて人を否定することでしか自分の存在を守れなくなるのだろうか。


インド語のボーディサッタは(求道において)努力する人の意味。もちろん仏になるための道を努力する人の事だ。
日本で菩薩という言葉に変化した。


現代という時代は菩薩を求める人は馬鹿にされて、石を投げられる。
「仏」は人を救おうとするが「人間」は仏を目指すものの足を引っ張ろうとする。
「餓鬼・畜生」は他者から奪おうとする。


道は遥か先で気が遠くなる。だが行を止める事はできない。行いの積み重ねは終わる事はない。それは誓い。
誓いとは自らの中にあり、自らを規定するもの。
それは日常の枷であるが枷を付けなければ行けない場所がある。