ケビン・カーターの作品で考えること

1日経ったが、ケビン・カーターの写真が脳裏から離れない。中学生の時に見たのと違った印象を受けている。 http://www.picturapixel.com/wp-content/uploads/2009/03/carter.jpg


写真の美しさよりも、その現場に居合わせてしまった「一瞬」が気になっている。 どんなに腕が良くてもその「一瞬」に出会えなければ生まれない写真のなんと多いことか。


その「一瞬」に出会うことの出来る運も才能だと思っている。嗅覚と言えばいいのか。 プロサッカー選手が「どの場所」にいれば(行けば)ボールが来るかを知っているように。運の問題は偶然では片付けられない。



他人は「運」で片付けるだろう。だが、彼らは自分が居るべき場所、すべき事、その時間帯を「知っている」と考える。嗅覚、感覚、直観などによって。知っているからこそ、意識的に作品化する。多少のラグは問題ない。芸術への置き換え。それはかなり意図的なものだ。


多くの人間が集まることで集合する業のタイムラインと渦の中で自分が身を置く場所、行き先、なにをすべきかについて意識的になっているのだと考える。その業を視覚的に認識しているのではないか。


考えていることを全て言語的に考えて居る人が居る。それらは全てではない。「夢」のように非言語的に視覚的に考える人もいる。端的に言えば右脳タイプ。右脳タイプのさらにビジュアルアート系の人は視覚像をまた別の視覚像に変換したり、ある現象を思考ではなく、視覚で捕える。

遊牧民は道路も交通標識もなくても広大な土地を何十キロも旅をする。 視覚的思考は現代社会において追いやられているように感じる。


視覚的思考は語義矛盾があるので、「視覚型」と書いた方が良かったかもしれない。