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シリアスとコミカル

最新作品である、絵馬展の出展作品はどの作品も今までで一番シリアスな作品かもしれません。自分の中のシリアスとコミカルの区別が上手く付いていません。シリアスな気持ちに耐えられなくなるとコミカルに走ります。それは道化。 道化は自分のためか、他者のためか。


感情のコンフリクトおよびアンバランスおよび、アンビバレンスが起っていることが分かります。その全てを出せるのが美術。矛盾を内包していても良い。だから論理矛盾と破壊が許されています。


「全部出し」にも技術と経験が必要だと分かりました。
それらはどちらかというと、生き方の問題に集約されていっています。
今だけの問題ではなく、数年越しの「問い」として心の中に持ち続けてきました。


この場合、問題は難解です。自己の中にブラックホールを持つようなものです。知的な訓練を受けてきた者が一切それらに頼ることなく、自分も最も不可解なものを見つめ続けます。 闇の中や霧の中を、全力で走るようなものです。命のやり取りをするような危険が伴います。


複雑怪奇な自分を最もシンプルな形に追い込んでいきます。知性としての男性性が感覚としての女性性に近付いていこうとします。しかし、男性における女性性は求めても得られず、近付いても消え去っていきます。斯くして、男性は深い森の中で彷徨います。


その後、女性は巫女になり、男性は哲学者になります。


また、その後、他人を欲しいと思いながらも他人になりきれないことが分かっているので、人はアンビバレントな状態になります。ある場合は他者の完全な真似に走ります。他者との同化を図ります。
また一方で傲慢になります。そうやって他者との壁を作ったり差を明確にしていこうとします。しかし、霧が晴れるわけではありません。


最もシンプルなのは悲しい自分、激しい自分、愛や、殺意、そういったものをそのまま出すことです。
しかし、シリアスになればなるほど婉曲になっていく事も面白い部分です。
絵柄だけを見て、シリアスさは伝わりません。
その際、もはやアーティストは幻想という名の森に彷徨っているので、客観的判断が出来ません。
薬物的でない、幻想、幻覚、妄想の世界。


作品が他者に全く理解されないのはこういった理由があるからでしょう。
「現代美術」が難しいのではなく、人間対人間の理解が難しい。