芸術道に寄せて


自分の中にはものを作り出したいどうしようもない欲求があります。
『男は女と違って子どもを産めないから、別の生産をする』
というような考え方がありますが、自分にとっての生産とは芸術になります。

そこで疑問が生まれます。
はたして、芸術とは人間にとってどのぐらいの生産性があるのか、と。
その問いを自分の中にずっと持ちながら芸術の道を歩いてきたように思います。

作品は日々、作られ続けます。
けれどもそれに見合う発表場所がありません。
作品を発表する場所を積極的に作っていく事がここ数年の目標になっているように思います。
発表する場所が無いので、多くの作品がお蔵入りになりました。
作った分だけ発表されるわけではなく、その背後に選別外になった屍が累々としています。作品を作るという事はそういうことなのかもしれません。

大学で作品を発表する事は内向きで、どうしようもない気もしてきます。
けれども普段接している、身近な人に作品を見てもらいたい気持ちもまた強いのです。
作品を通してでしか人と関わりを持てない悲しさと、自分の大切なものを人と共有できるかもしれない期待のアンビバレントな感情が交錯します。

今回の展覧会で「芸術道」という映像作品を発表します。
それは単体の映像作品であり、また部屋に置かれた資料によって作られた足跡を含みます。
多くの挑戦を重ねてなお、人が理解し合うことは難しく、芸術を続けることは不屈の精神そのものだと最近思うようになりました。
道なき道をひたすらに歩き続け、少しずつ自分の足で道を作っていくように感じます。

もし作品がきちんと生命を持ったら、その時、やっと生産の意味が自分の中で消化されるのだと思います。非生産的なものに本気になれるということが芸術なのかもしれません。
そこには損得も評価も国籍も男女差も生まれも育ちも関係なく、純粋な想いによって作られます。
だから僕は作品が生命を持てるよう、魂を削って作品を作ろうと鍛錬します。
その思いは17歳の頃から全く変わっていません。


 2009年10月31日 三田村龍伸