遠出をするのが久しぶり過ぎて緊張する。
レバノンに行く時ほどではないが、近い感じの緊張感だ。


深夜バスを待つ時間、何か書こうと思う。


今日はお昼に大学で論文を提出。今週の予定は高松に行くので変更してもらったが自分の計画性の無さに反省。せめて一週間前から決まってないとダメだよね。
反省。


午後から多摩美の教職員展を見に行き、その後横浜へ。たっちゃんの車に乗せてもらった。
多摩美は受験の時以来行ってない。日大から多摩美に移った先生がその教職員展に出しているので見に行った形だ。


多摩美はとにかくすごかった。敷地は広いは、施設は充実しているは、先生の部屋が一つ一つ用意されているはで。
大学が研究機関として機能しようとしていることが伺えた。
比べると日大は職人的だな。
まあ、日大もいい所、沢山あるんだけどね。特にここ何年かは大学の外で活動するようになった。もっと長い目で見てそれが活発化になっていればいいと思う。


所沢校舎はでかいと思ってたけど多摩美と比べるとすげー小さかった。


そして横浜バンカートへ。原口典之展。
展示を見た後に作家トークがあった。価値観を共有出来なかった。

「今の若者はある土台の上に乗っていてつまらない、自分達で(価値観?)作っていないからつまらない」と言っていた。


その言説に乗ると、3点の指摘が出来る。
一つはあなた達の作ってきた時代や価値観に乗らないと言うことは、私達の世代はあなた達の世代を否定しなければならないこと。
もう一つは、私達は充分に過去の存在(上の世代)を否定していて、新しい物を作る努力をしていて苦しんでいる事。(そして皮肉な事に上の世代は若者を理解不能として嘆く)なぜなら、僕たちの世代の方が新しいもの作れ、オリジナリティーを大事にしろ、自由に作れ、などとさんざん言われながら生きている。そして拡散・飽和状態になってますよー。
そっちの方が今問題になってるんですよー。

そして原口さんもまたモノ派、またはミニマリズムコンセプチュアルアートの土台の上に乗っていること。
誰しもが影響を与え合い、受け合う。
僕もまた改革者であり、冒険者でありたいが時代の影響からは逃げられない。


もしそういった事で、充分に苦労し、苦しみ、理解していたならああいった事は言わなかったと思う。だから共感出来なかった。


僕は世代で区切ること自体に共感出来ない。何故なら、僕はミケランジェロにもゴッホにも感動したし、土谷武さんも尊敬してる。もし世代で区切ったら何も伝えられないことになる。そういった考え方は歴史の否定だ。
先人が護ってきたものの否定だ。


もちろん最終的には作品に帰結することだから、反論をするだけのつもりはない。


僕もまた作品を作ることで応えようと思う。僕は言葉で戦う批評家ではないから。


いま、四国に向かっているのは無論、僕の戦いのための準備。
応えるべきは他の作家に対してではなく、もっと一般の人に対してだ。


そうであってこそ、物質を通して社会を語れるのだと思う。