小学校も中学校も高校も大学も僕には狭い箱過ぎた。
だから、そう感じたなら、自分でその外側に出なければならない。
それらの箱に不満があるわけではなかった。
自分の未熟さも充分に認識している。
だけど、何かが違っていた。楽しく時間を過ごせた。だが、楽しい事は別の話。
「今の教育のやり方」は(長い時間をかけて)きっと多くの人にとって役に立つし、実証された来たのだろうと思う。


しかし、自分にとっては合わなかった。
その中で最大限に努力をしなければならない。
そう。きっと結果を出す事でしか、方法はないのだ。
結果を出してもなお、認めない人に対しては何の方法もないのだ。
ただ、静かに自分のやる事を謙虚に、懸命に続けるしか、ない。
大きな流れに乗らなくてもいい。ただ、自分の美学は貫きたい。
意固地になるわけではない。リアリティーがないものをやることは嘘になるから、美術に対して、嘘をつきたくない気持ちだ。その表れだ。


父が小さな商店でパンを買う理由が歳を取ってやっと分かった。
大きなスーパーは人はいくらでもバイトで、交代され、そこには歴史も愛情もない。
「強き者」に寄る事を良しとしなかった。
小さな物への眼差しと愛着。人が何かを護ってきた事に対する敬意。



何か話があった時に、本当にいい話か?と思う。
単純にいい話だったとしても、それでいいのかと思う。
飼われているだけではないか。それは本当に、世界に対する愛情なのか。
思い入れなのか。本当に喜ぶべき事か?
本物か、嘘か? 
頭をよぎる。自問自答が続く。



フロンティアでありたい。世界に散在する冒険者達の為に。
それは励まし。勇気づけ。任侠。


自分の力で立つ。立ってさえいればいい。自分が居続けたい場所に。


僕たちの先人が体を張って護ってきたものを、多く見かける。
そういうものを見ると、自分が小さく思える。
何もしてないじゃん!と思う。
遊びだったんじゃん。アートという言葉を軽く扱ってたじゃん。
余興じゃん、と。


日々、戒める。



来年は、瀬戸内海に行く。
忘れられたものを取り戻しに。
21世紀が忘れたものの多くがきっとあそこにある。
僕は知覚の冒険者として、それらを発見し、伝えるのだ。
例え、公募に通らなくてもその意志を通すのだ。


ルーツを辿った、その軌跡を別の形で表す。
もちろん、美術の文脈で。


それはとても難しいことだと思う。
だから、やる。


だからやる価値がある。