森塾展終わり

僕が大学三年の時、初めて個展をやった。
大学が持っているA&Dギャラリーという所だ。(今はもうない)
卒業するまで授業は殆ど出席。夜遅くまで制作する毎日なので時には疲れて寝坊してしまう時もあったが。
そんな自分が個展の時はずっとギャラリーに居た。授業も出ず、制作もせず。
誰も来なくてもずっと待った。僕がギャラリー内に居ることが嫌で展示を見に来ない人もいた。それはそれで仕方がないのかもしれない。
今まで色々展示をやって来て、そのやり方を貫いている。遠くから見に来る人もいる。作者が居なくて作品だけがあるのは遺品。死んだあといくらでもやれる。永遠に。
作者が生きている間は作品と作者は共生関係にある。ずっとその美学・ポリシーを貫く。

絵馬展のようなグループ展で、ギャラリー空間の都合上、在廊出来ない例外もあるが。


去年の芸祭でやった「ダブルビジョン」は素晴らしかった。作者自身が作品の一部になっていた。作者がギャラリー空間に張り付き、景色の中も溶け込んでいた。
朝から昼から夜までずっと作者は作品と共にあった。3日という短い時間だったがいつまでも記憶に残る甘美な時間だった。そこでは時間の長さは重要ではない。


本来、共生関係にあるものが見事にコンビネーションを繰り広げ、展開していった事。それは非常に稀で、貴重だ。「意識の高さ」は通常相対化され、お互いのエゴ(壁)を越えない。
だがあの時は違った。幾重もの連携によって空を飛ぶ。飛び出した鳥達は更に空中で踊る。
そして意識の高さは絶対化される。それが思い込みであっても。


それをイメージ出来るか?


僕には出来る。
思い込みであっても。社会や他者を恨まなくても、妬まなくても、疑わなくても見えるものがある。
疑いが真実を探す手段だと誰かは言う。
僕は信じる事で、真理を探す。


哲学や理論で証明はしない。命を燃やして、視覚化する。燃やすことによって、燃やすことを、燃えている姿を、燃えた形跡を、その残照を。
そうやって見せる。


何はともあれ、展示が終わった。泣いても笑っても終りだ。
展示に来て下さった方、本当に、本当にありがとうございました。


会場作りはあれで良かったのだろうか。疑問が残る。
予算とか、時間の問題ではなく、アイデアとか、美学の問題として。
「たかが大学内のギャラリーだろ?」という人もいるかもしれない。だけど、違う。常に当たり前のものはない。毎日変化が起こる。手を抜く人はいつでも抜く。何かのチャンスがあって銀座で個展をやることになっても本気になれない。本気が分からないから。逆に学生に本気を見せなければ学生も本気が分からない。それでは何も良くならない。


当たり前の展示であるならばなぜ、展示をしようと思った?
自問自答は続く。


毎日、展示会場が違っていてもいい。良くなるなら変えてもいい。
もっともっと良くなる事を考えなければいいアイディアは浮かばない。
展示が終わり、これからまた振り返る時間が増える。
基本的に僕は足し算の人間だ。今回は歩が引き算をしてくれたのではないかと思う。
僕がやるとぐちゃぐちゃになる部分を整えてくれたのだと思う。


上に時間の長さは重要ではないと書いたが、今回の展示は1週間という時間に意味があった。
2、3度ギャラリーに来てくれる人が居たのだ。
その中には知り合いでない人も含まれる。
全員がそうかは分からないが、確実に「気になる」展示であったと想像してよいだろう。
こういった展示がなにがしかの良い影響を与えていたのなら、やる意味はあった。
そしてコミュニケーションの問題。
例え短い時間であっても新たに話す機会があった人がいる。
そういう時間を貴重に思えた。
(掲示してあるのに)同じコースであっても展示をやっている事を知らない人、また、付き合い感覚でさえ、来てくれない人、色々な人が居る。
そういう事を考える時間、見る時間があった。