対話意識

最初から対話をする意志のない人と話をすると殆ど実りがない。
なぜ、人は人と話すのだろう。

挨拶とか、擬音を発したとしても、それは音の交換であり、
他者に向けられた言葉は自問自答とは異なる。


僕は話す事とは価値観の共有だったり、交換だったりだと思う。
そうやって考えていくと自分なりの歳の取り方とか、成長の仕方について考える所が出てくる。


自分にとって、成長するとは、思考が柔軟になることであり、人格で言えば、柔和になる事。
自分に対しての厳しさと、他者に対しての態度は異なる。
厳しさ故に自分に発する言葉があり、
また厳しさ故に他者に発しない言葉もあるだろう。


相手の意見を聞き出すために、まずは信頼されたり、話しやすい空気を作る必要がある。
それは上で言った人格における柔和さにつながる。


特に年下の扱いで考える事がある。
最初から「未熟である」、「分かっていない」と評価する(または発言する)事で相手が萎縮してしまい、相手が自由な意見を言えなくなってしまう。その態度は対話拒否の姿勢となり、お互いの意思疎通が無くなる。
それはお互いに損失だ。


お互いに成長できるか、損失と成るか、それは対話の手前のちょっとした部分にある。



そう考えると議論と対話が異なることにも気が付く。


僕が美術をやる理由として、やはり美術に対する愛着、愛情が動機になっている部分がかなり大きい。
対話をしたいだけなら、美術をやるより、話し合った方が遥かに早いのだが、「したい事」は美術の文脈の上で実現したい。
それは効率とか、社会性とかで考えた時、「頭の悪い人(立ち回りの下手な人)」の方に入ってしまうのだろうが、そういう風に他者から思われる恥より、美術に対する愛情が勝る。


人に対する苛つきとか、社会に対する不満とか、自分が虐げられた事を表すのは建設的じゃない。
だから、僕は「反論」としての美術ではなくて、「肯定」の為の美術をやりたい。


森塾の活動を始めて1年半以上が経った。森塾展で色々と振返る機会があった。
そこで初めて出てきた言葉がある。
「HAPPY ARTS! Everyday,and forever!」だ。
この言葉になるまで、時間はかかったが、きっと胸の中で眠っていただけで、ずっと持っていたのだと思う。


アーティストは「持っているもの」の意味が分からず、表す。
そして大分後になって意味に気が付く。
自分が実現したかったこと・願いに気が付く。


もちろん美術に限ったことではなく、色々なことに言えるだろうと思う。



ここまで来て、色々な人に助けてもらったこと、時間を共有したこと、楽しい時間を過ごせたこと、
成長させてもらったこと、そういったことに感謝してる。
毎日感謝している。
友人や家族だったり、生きていることだったり、感謝しない日はない。
色々な行動と感謝がスイッチでつながっている。
ある種の「トレーニング」が「筋肉」になったのだろう。


そして初めは小さかった事に意味が出てきた。






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