アートには色々な請求力がある。
その中で、「幸福」に関する、メッセージ性を送るタイプの作品はとても難しい。
アートは悲劇を表すのは得意だが、
喜劇を表すのは不得意であるからだ。
幸福のメッセージは喜劇を超える。


アートの文脈では願望、癒されない哀しみへのせめてもの癒し、「表現」に挙がらない「表層」において力を発揮してきたと思うのだ。


僕は今、あえて、その「幸福側」の道を歩もうと思っている。
それは芸術家として、面白くないものだ。
反骨精神があって、社会の規範に収まらず、ややしも法律を超える存在(危ない感じのする)としてのアーティストの方が話題性があるし、マッドだし、目立つだろう。そして声高に語りやすい分野であろう。それを見た人も含め。
計画性があれば最も「売れる」タイプだ。


「目立たなくてもいい」、「もっと丁寧に、一つ一つを伝えていきたい」と思った時、
自分が感じている最もリアリティーのあるものとしての「幸福」、それをやっていかなければならないと思った。



自分がリアリティーを感じているものこそ、伝えていかなければならない。
受けるとか、売れるとか、目立つとか、話題性になるとか、そんなことを考えて作品を作ってもすぐにメッキがはがれる。
自分にとってメリットがなく、且つ周囲に不快感をもたらす。
なぜなら、作者にとってリアリティーがないものは他者も共感できないから。
(逆に他者が共感を得ている問題を作家が扱う事に関して(寄り添う行為)は今後の私が考えていきたい所である)



そういった意味で、現代美術は方向性を見つける事自体が困難になり、あらゆるアーティストが迷走していると思う。自分を含め。


だが、どのアーティストも真面目に真理を求めていると、信じている。
迷走する事自体が悪い事ではない。(「個人の人生」の中で迷走は必要不可欠)
迷走する事に疑問を持たない事が問題を拡大する。


歴史を学ぶ事だ。
歴史の中から、過去の偉人がどうしたか、どう、行動したかが表されている。
その歴史の力借りて、ある人はパロディーに走るだろう。(それは「虎の威を借る狐」の行為なのだが・・・。)
ある人は異例の道を辿るだろう。
どちらにせよ、先人を尊敬し、過去から学ぼうとする姿勢がもたらす結果だ。