人と美術。(第四夜)

「美術と人がどのように関わっていったらよいのだろうか」というのが前日の問いでした。

考え中ですがいま思い浮かぶことを述べたいと思います。人と美術がかかわっていくということですがこれには三つの立場があると思う。
一つは鑑賞者としての立場。
一つは研究者としての立場。
一つは制作者としての立場。この三つの立場あり、どの位置に立つかによって美術と人との関わり型が変わっていくことと思う
例えば一つの美術作品があったとき、鑑賞者は美術作品を見ることを楽しみ、研究者はいつどこでだれがどのように制作したのかを疑問に思い、制作者はどのような素材でどのように制作したのかが気になることだろう。

多くの人は鑑賞者としての立場であります。中学生、高校生で習う、美術授業も鑑賞者でいるのに近い立場だと思います。なぜなら、公教育の生徒の立場というのは受け身だから。その受け身の立場というのは鑑賞者、すなわち受動的な立場に近いものがあります。
僕は自分が制作者の立場なので自然に制作者の立場で考えることが多くなります。
制作者としての立場で美術と付き合っていく時、制作活動をどのようにしていったらいいだろう。そのような中でどのように美術と関わっていこうかと考えます。

一つは公募への出品、美術団体への所属があります。これは一番多くの人がやっているポピュラーなやり方でしょう。すなわち大きな流れに乗るやり方です。
一つは個人としての活動。ギャラリーを借りて個展をやったり、実力のある人は美術館から声がかかったり、ギャラリーから声がかかったりもします(そういうのは激稀)。
一つは発表を中心とするのではなく、制作を中心と考える。友人知人にできたものをあげてしまったり、あげない売らない。でも作るという姿勢。
一つは美術に関わる行政側の人間(いわゆる役人)を育てること。そして美術界のパワーバランスを増やすこと。ほかにコレクターを大切にすること。商売の相手としてより、文化の担い手として。
一つは教育的な立場で美術とかかわっていく。
もう一つはアートセラピー

美術をどのように使うか。
どのようにして関わっていくかというのは多く人が悩むことだと思います。

交通の便もよくなり、身の回りはコンビニなどの長時間営業の店も増え、携帯電話があればいつでもどこでもだれとでも連絡が取れる。必要な情報はテレビ、ビデオ、インターネットで得られる。本当にいい世の中になってきた。
そのような中で信仰も美術も段々と衰退してきている。情報が多くなって人々が混乱してきている。

美術そのものも威力がなくなってきている。
昔ほど美術というものが刺激の強いものでなくなってきたからだ。

もっと人々は自分の速度を考えるべきなのだ。
車で移動するのではなく、自分の足で歩き、人間のスピードというものを知らなければ。
分からないことをインターネットで解決するのではなく、幾日もかけて考えたりして人間の思考がどのようなものか知らなければ。
会いたい人と会わないで携帯ですませていることを反省するならば会いたい人に会いに行かなければ。